解説集
  • 三.絵画

子供の頃からの共通の趣味だった絵画

 漱石も寅彦も、子供のときから絵が好きだった。
 漱石は、「思ひ出す事など」(明治43年10月29日から『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』に連載)の中で次のように書いている。
  小供のとき家に五六十幅の画があつた。ある時は床の間の前で、ある時は蔵の中で、又ある
  時は虫干の折に、余は交る交るそれを見た。さうして懸物の前に独り蹲踞まつて、黙然と時
  を過すのを楽とした。(中略)画のうちでは彩色を使つた南画が一番面白かつた。惜い事に
  余の家の蔵幅には其南画が少なかつた。子供の事だから画の巧拙などは無論分らう筈はな
  かつた。好き嫌ひと云つた所で、構図の上に自分の気に入つた天然の色と形が表はれてゐ
  れば夫で嬉しかつたのである。
 後年漱石が南画風の絵を描いたのは、子供の頃から南画が好きだったことによるのであろう。
 寅彦もまた子供の頃から絵が好きだったようだ。「工科は数学が要るさうだからやめた。(中略)そして父の云ふがまゝに進まぬながら法科へはひつて政治をやつた」という設定の虚構のある作品だが、『ホトヽギス』明治40年2月号に発表した、目次に「(小説)」とある「枯菊の影」に次のように書かれているのは、まったくのフィクションではなかったのではないか。
  自分は子供の時から絵が好きで、美しい絵を見れば欲しい、美しい物を見れば画いて見た
  い、新聞雑誌の挿絵でも何でも彩色して見たい。
 その前月に『ホトヽギス』1月号に発表した、「幼く片親の手一つに育つて余り豊でない生活」などという虚構のある「森の絵(小説)」にも、石版刷の油絵を見て、「家へ帰つて夕飯の膳についても絵の事が心をはなれぬ」子供の思いが語られているのは、寅彦が子供の頃から絵が好きだったことが反映しているのではないかと思われる。五高時代の明治31年の4月4日の日記に「午前は水彩画をなし、午后は片山へ行く」と書いているように学期末試験が終わったときに水彩画を描いたり、東京帝国大学理科大学入学してからも『ホトゝギス』に投稿して裏絵や図案を載せたり、大学を休学して高知の須崎で療養していたときも、日記に「午後は写生に行く。(中略)中景の山の下半を写す。」(明治34年11月21日)、「しぐれがふる。これでは写生にも行かれぬ。」(同12月24日)、「午後新庄川口に到り写生。」と書いているように、度々写生に行っている。寅彦は絵が好きだったのである。
 漱石が留学中の明治34年11月20日に「油絵やバイオリンや俳句や寔に小説の主人公見た様で結構に思ふが其上に病気で海浜へ養生に来て居る抔は」と寅彦に書き送ったり、イギリスから帰国した明治36年の3月13日の寅彦の日記に、「夜夏目先生を千駄木の新寓に訪ふ 英国よりの御土産に美術画の写真を写真二葉貰ふ レニのマグダレナとレーノルドの「天使」となり」とあるように名画の写真を土産に与えたのは、寅彦が絵が好きだったことを漱石が知っていたからだろう。また後に寅彦は、大正12年に出版した『藪柑子集』に自分が描いた絵の木版刷を入れ、昭和10年に出版した『柿の種』にも自分の絵を挿絵として入れているが、寅彦の絵好きは一時的なものではなかった。
 絵は二人の共通の趣味だった。

(『ホトゝギス』明治33年10月号裏表紙の寅彦の絵)

(『藪柑子集』の木版刷の絵、『柿の種』の挿絵)