解説集
  • 一.夏目漱石と寺田寅彦

その後の夏目漱石と寺田寅彦

 第五高等学校に入学した寅彦は、「夏目漱石先生の追憶」(改造社『俳句講座 第八巻 地方結社編』昭和7年12月/昭和8年12月岩波書店発行『蒸発皿』に再録)に「学校ではオピアムイーターや、サイラス・マーナーを教はつた」と書いているように漱石の英語の授業を受け、明治31年(1898年)――「第二学年の学年試験の終つた頃」、「同県学生のうちで試験をしくじつた」「二三人の為に」「点を貰ひに」、「白川の河畔」の漱石の家を「初めて尋ね」たとき、俳句について話を聞き、以後、漱石の家に出入りして俳句の添削を受け、漱石が子規に送ってくれた寅彦の句が『ほとゝぎす』『国民新聞』や新聞『日本』等に掲載されるようになり、また、明治32年(1899年)7月に第五高等学校を卒業して9月に東京帝国大学理科大学入学することになった寅彦は、漱石の紹介で子規を訪ね、『ほとゝぎす』との縁がさらに深まった。
 また、漱石が明治33年(1900年)9月に文部省の派遣でイギリス留学に出発したときには、在京の寅彦は、「先生が洋行するので横浜へ見送りに行つた。船はロイド社のプロイセン号であつた。(中略)「秋風の一人を吹くや海の上」といふ句を端書に書いて神戸からよこされた」(「夏目漱石先生の追憶」)と書いているように、横浜に見送りに行き、また漱石が2年間の留学を終えて明治36年(1903年)1月に帰朝したときにも、新橋停車場に出迎えに行っている。
 帰朝後漱石は第五高等学校を辞職して第一高等学校・東京帝国大学の講師となり、明治40年(1900年)には教職を辞して東京朝日新聞社に入社して〝お抱え作家〟となったが、寅彦は、「帰朝当座の先生は矢来町の奥さんの実家中根氏邸に仮寓して居た。(中略)千駄木に居を定められてからは、又昔のやうに三日にあげず遊びに行つた」と書いているように、イギリスから帰ったばかりの漱石の仮寓を訪ね、その後、同年3月に転居した千駄木町の住まいを、日記に「夜夏目先生を千駄木町の新寓に訪ふ」(3月16日)、「午後夏目先生を訪ふ書斎にて種々の書籍を見せてもらふ」(同22日)、「夜夏目先生を訪ふ。宗教論。乱れ髪の歌の話」(同24日)とあるように、早速頻繁に訪れ、明治39年12月に転居した西片町の住まい、明治40年9月に転居した早稲田南町の漱石山房に出入りし、また漱石を誘って音楽会等にも出かけている。そのような二人の交流は大正5年(1916年)12月9日に漱石が亡くなるまで続いた。

(見送りに行った横浜桟橋と出迎えに行った新橋停車場)

 

(東京での漱石の住まい/ 『新小説臨時号 文豪夏目漱石』〈大正6年1月〉から)