解説集
  • 四.ヴァイオリン

ヴァイオリンが出てくる漱石の作品と寅彦

 「吾輩は猫である」だけではなく、その後の漱石の他の作品――「三四郎」(明治41年9月1日~12月29日『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』)にヴァイオリンの話が出てくるのは、当時ヴァイオリンが流行していたからということもあったろうが、やはり漱石が寅彦からヴァイオリンの話をたびたび聞かされていたからであろう。たとえば、「三四郎」で、野々宮の妹のよし子が「此間のワ゛イオリンは和製で音が悪くつて不可ない。買ふのを是迄延期したのだから、もう少し良いのと買ひ易へて呉れと頼ん」だり、「責めて美禰子さん位のなら我慢すると云つて居る」という話が書かれたのは、あるいは漱石が寅彦から〝和製の〟〝ワ゛イオリン〟である鈴木製のヴァイオリンについて話を聞かされていたからなのではないか。よし子の「責めて美禰子さん位のなら我慢する」という言葉は、美禰子は「和製」のヴァイオリンでも「もう少し良い」楽器を弾いていたということを意味するもので、漱石は「和製」のヴァイオリンにもいろいろあるということを知っていたということになるのだが、そのような知識も、寅彦から、明治29年に「八円八拾銭」の「和製」の鈴木製と思われるヴァイオリンを買い、「三四郎」連載が始まる直前の明治41年8月12日に「もう少し良い」「和製」の鈴木製と思われる「22yen」のヴァイオリンを買ったことを聞いて得たものだったのではないか。また「野分」(『ホトヽギス』明治40年1月号)の高柳が中野に誘われて、上野の東京音楽学校の奏楽堂らしい「動物園の前」の「楽堂」での慈善演奏会で「バイオリン、セロ、ピヤノ」の「三部合奏曲」を聴き、「ワ゛イオリンを温かに腋下に護りたる演奏者」を見る話も、「夏目漱石先生の追憶」に「上野の音楽学校で毎月開かれる明治音楽会の演奏会へ時々先生と一緒に出かけた」とあるような体験、「野分」を起稿する少し前の明治39年10月29日の寅彦の日記にも「午後夏目先生を誘ひ上野音楽学校の演奏会に行く」と書かれているような体験が背景にあったのであろう。

(ヴァイオリンを弾く女性の写真・引き札等)

※当時ヴァイオリンが流行していたことは、よく知られる。鏑木清方の絵にもヴァイオリンを弾く女学生を描いた「秋宵」(明治36年)がある。また女性が写真を撮るときの小道具にもよくヴアイオリンが使われている。少し後の大正時代のものだが北越の穀類・和洋酒・缶詰・煙草・菓子等を商う店の引き札(広告)にもヴァイオリンを弾く女性を使ったものがある。

(「吾輩は猫である」最終回掲載『ホトヽギス』明治39年8月号)

※寅彦をモデルにした水島寒月のヴァイオリンの話がある。