解説集
  • 二.俳句

寅彦と漱石と俳句

 第五高等学校2年の明治31年(1898年)、第2学期の試験で失敗した同県の学生のために白川河畔の漱石の家に点を貰いに行った寅彦が、雑談の末に「俳句とは一体どんなものですか」と質問すると「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。」「扇のかなめのやうな集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。」云々と漱石が答えたという。寅彦は、同年1月3日の日記に「木枯らしや故郷の火事を見る夜かな」の句を書き付けていて、それ以前に俳句を作った経験がないわけではなかったが、「こんな話を聞かされて、急に自分も俳句がやつて見たくなつた」寅彦は、以後、漱石に俳句の添削を受けるようになった。その頃のことを寅彦は「夏目漱石先生の追憶」で次のように回想している。
  さうして、其の夏休に国へ帰つてから手当り次第の材料をつかまへて二三十句ばかりを作
  つた。夏休が終つて九月に熊本へ着くなり何より先にそれを持つて先生を訪問して見て貰
  つた。其次に行つた時に返して貰つた句稿には、短評や類句を書き入れたり、添削したり
  して、其中の二三の句の頭に○や○○が付いて居た。それからが病み付きで随分熱心に句
  作をし、一週に二三度も先生の家へ通つたものである。其頃はもう白川畔の家は引払つ
  て内坪井に移つて居た。立田山麓の自分の下宿からは随分遠かつたのを、丸で恋人にでも
  会ひに行くやうな心持で通つたものである。(中略)当時自分の外に先生から俳句の教を
  受けて居た人々の中には厨川千江、平川草江、蒲生紫川(後の原医学博士)等の諸氏があ
  つた。その連中で運座というものを始め、はじめは先生の家でやつて居たのが、後には他
  の家を借りてやつたこともあつた。時には先生と二人対坐で十分十句などを試みたことも
  ある。さういふとき、いかにも先生らしい凡想を飛び抜けた奇抜な句を連発して、さうし
  て自分でも可笑しがつてくすくす笑はれたこともあつた。
   先生のお宅へ書生に置いて貰へないかといふ相談を持出したことがある。裏の物置なら
  明いて居るから来て見ろと云つて案内されたその室は、第一、畳が剥いであつて塵埃だら
  けで本当の物置になつて居たので、すつかり悄気てしまつて退却した。併し、あの時、
  いゝから這入りますと云つたら、畳も敷いて綺麗にしてくれたであつたらうが、当時の自
  分にはその勇気がなかつたのであつた。