解説集
  • 四.ヴァイオリン

ヴァイオリストになった漱石の長男純一

 漱石の長女筆は、明治41年10月から東京音楽学校を卒業した音楽家中島六郎にヴァィオリンを習っていたが、中島から勧められ、明治42年5月に春陽堂から出した『三四郎』初版の印税で6月に筆のために買ったピアノで、中島から習い出している。そのきっかけになったのは、明治42年(1909年)3月に寅彦がドイツに留学するときに、寅彦のオルガンを漱石の家で預かって筆が弾いたことだった。また、後年、長男純一がヴァイオリンを学び、ベルリン、ウィーン、ブダペストに行って、帰国後は第1ヴァイオリン奏者として東京交響楽団で弾いていたのも、漱石と寅彦との交流があったからかもしれない。寅彦の音楽、特にヴァイオリンによって漱石の文学と家族も含めて、漱石の人生は多大の影響を受けた。だが、大正5年12月9日に亡くなっていた漱石は、そのことを知らない。

(『三四郎』〈明治42年5月/春陽堂発行〉」)

※朝日新聞に連載した「三四郎」を収めたこの単行本の印税で漱石は長女筆のためにピアノを買った。明治42年6月21日の漱石の日記に「とうとうピヤノを買ふことを承諾せざるを得ん事になつた。代価四百円。「三四郎」初版二千部の印税を以て之に充つる計画を細君より申し出づ。いやいやながら宜しいと云ふ。子供がピヤノを弾いたつて面白味も何も分りやしないが、何しろ中島先生が無闇に買はせたがる人だから仕方がない。」とある。だが、日記にも照れ隠しの文を書いたであろう〝江戸っ子〟の漱石の本音は「いやいやながら」ではなかったかもしれない。夏目鏡子述『漱石の思ひ出』に「長女がピアノを習うやうになつてから、よく連れて音楽会に参りました。芝居を見る時には、芝居より桟敷の方を観るのが多い位なものなのですが、音楽会の時には非常に几帳面で、いつぞや長女が一緒に行つた時、一寸後ろを振りかへつたら大変怒られたと申して居りました。」とあるように、筆にピアノを習わせ、父娘二人で音楽会に行くのがまんざらでもなかったのではないか。「音楽会の時には非常に非常に几帳面」だったという漱石は、音楽もほんとうに好きだったのだと思われる。