解説集
  • 二.俳句

紫溟吟社(しめいぎんしゃ)

 寅彦が書いているように、五高生で漱石から俳句の指導を受けたのは寅彦だけではなく、後に漱石が東京朝日新聞社に入社するときに仲介した白仁三郎(坂元雪鳥。当時は白仁白楊と名乗っていた。)、厨川肇(千江)や、寅彦より少し前から漱石の家を訪ねていた蒲生榮(紫川)等が漱石の家に集うようになり、寅彦の日記の明治31年10月2日の記事に「漱石師の許にて運座の催しあり」とあるような俳句の会がもたれるようになっていった。
 そもそも蒲生榮(紫川)が俳句の指導を受けるために漱石の家を訪問したり、寅彦が初めて訪れた漱石の家で俳句について質問したのは、漱石が俳句を作ることが五高生のあいだで知られていたからである。漱石は、東京にいたときから俳句を作って子規に送り、子規が俳句欄を担当していた愛媛の『海南新聞』に載せていたが、明治28年(1895年)4月に愛媛県尋常中学校に赴任し、松山での二つ目の下宿に、新聞『日本』の記者として日清戦争に従軍するために出発したものの喀血して松山に帰っていた子規が8月下旬から52日間二階に寄宿し、漱石も子規たちにまじって俳句を作り、その句が『海南新聞』だけでなく雑誌『日本人』、『新俳句』、新聞『日本』等に掲載され、寅彦たち五高生のあいだでは、漱石は単に帝大出の英語の教師というだけではなく、〝俳人〟としても意識されていたのであろう。

(明治30年3月7日の新聞『日本』に載った漱石の俳句)

※子規(獺祭書屋主人)は「漱石は明治二十八年始めて俳句を作る」と書いているが、漱石はそれ以前から俳句を作っている。

 なお、漱石の家で俳句の指導を受けた五高生たちはその俳句の集まりを「紫溟吟社」と名付けたが、その命名の中心になったのが誰なのかということについては関係者の発言に相違がある。例えば蒲生紫川は「九州の新派俳句界」(『懸葵』一ノ四/明治37年5月)で「千江子と相談してこの会合を紫溟吟社と名付けた」とし、それを採って村田由美氏は、「明治三十一(一八九八)年一〇月五高で結成された新派俳句会は、厨川千江と蒲生紫川によって「紫溟吟社」と命名された。」(『漱石がいた熊本』2019年5月/風間書房)とするが、坂元雪鳥(白仁三郎)は、『ホトヽギス』第11巻第11号(大正4年7月)に掲載された「熊本紫溟吟社の起り」で次のように書いている。
   明治三十年の秋の一夜、熊本市内坪井の夏目漱石先生のお宅に十人ばかりの学生が集
  まつた。夫等は皆先生が教授の職を奉じて居られた第五高等学校の学生であつた。而し
  て其大部分は其夜初めて運座といふものを知つた。(中略)此夜の会が高等学校の学生
  間に俳句団体が出来る第一歩であつた。此会以前に夏目先生に句を見て貰つた者は寅日
  子、千江、紫川の三君のみで、しかも三君は先生に引合せられて互いに相識となつたの
  であつた。此第一の会も千江紫川両君が奔走して駆り集めたので、(中略)此会は試み
  の会であつた。(中略)翌卅一年の何月だつたか確と覚えないが、千江君と僕とで紫溟
  吟社といふ会名を定めて新たに学生間に会員を物色した。
 この坂元雪鳥の「熊本紫溟吟社の起り」によれば、「紫溟吟社」という結社名は、厨川千江と坂元雪鳥(当時は白仁三郎〈白楊〉)が考えたもので、またその結社名が付けられたのも明治31年10月2日に漱石の家で初めて持った運座の会をやったときではなく、後のことだったということになる。坂元雪鳥が当時を想起して書いたこの文章は、記憶違いで明治31年の運座の会を「明治三十年の秋」とするなどの誤りがあるが、「紫溟吟社」についての蒲生紫川の発言を引用する通説を再検討する必要があることを考えさせるものである。

(「熊本紫溟吟社の起り」掲載の『ホトヽギス』大正4年8月号)