解説集
  • 三.絵画

寅彦と漱石にとっての絵画

 寅彦は、水彩画ばかりではなく油絵も描いた。『中央公論』大正9年9月号掲載の随筆「自画像」に、中学時代に「少しばかり」油絵を描いてみたことがあること、4月の初めに急に油絵がやりたくなったことなどが書かれているが、日記の4月10日の記事にも、思い立って「油画」のスケッチ用具を買いにいったことが書かれている。その後寅彦は多くの油絵やスケッチを残しているが、絵画は、一時離れていた時期はあるものの、寅彦にとって子供の時から晩年に到るまで続いた生涯の趣味だった。
 なお、漱石も油絵を描いたことはあり、大正2年には、津田青楓に「油絵の絵具を買ふ事が出来ます。いつか一所に行つてくださいませんか」(7月20日付書簡)と頼んで絵具を手に入れ、青楓に教えてもらって油絵を描きはじめた。ただ、「小生の油絵は例によって物々騒々たる有様に御座候」(7月30日付鈴木三重吉宛)と始めたばかりの頃書いているが、結局油絵はものにならなかったようだ。
 とはいえ、漱石はほんとうに絵が好きだったのであろう。その年、江戸中期の儒者・篆刻家・画家で富士(芙蓉)を描いた代表作「百芙蓉」で知られる高芙蓉(大嶋孟彪)の絵を見た漱石は、青楓への書簡(12月8日付)で「高芙蓉の画を見てから僕も一枚かきましたが駄目です(中略)生涯に一枚でいゝから人が見て難有い心持のする絵を描いて見たい山水でも動物でも花鳥でも構はない只崇高で難有い気持のする奴をかいて死にたいと思ひます」と書いている。晩年、南画風の絵を描いたのは、子供のときに家で南画を見たときからの絵に対する思いをずっと持ち続けていたからであろう。
 漱石も寅彦もほんとうに絵が好きだったのである。

(漱石「山上有山図」〈大正元年〉/岩波書店『漱石書画集』から)